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銃を鍬に!プロジェクト「平和を求めて・・・」

■内戦の終わらない国 モザンビーク

内戦問題解決私がPAに関ったきっかけは、エチオピアで発生した飢餓に苦しむ子供たちの役に立ちたいという思いからで、戦争が難民を生みだす構造をどう変えられるのかということだった。だから、「銃を鍬に!」運動に私がのめり込んでいくのに、時間はかからなかった。

「銃を鍬に!」運動は、内戦が30年間続いたモザンビークで、市民主体で銃の回収を行なおうと、93年からPAがスタートさせたものである。「世界がそして日本がモザンビークに注目している」というメッセージを伝えるため、93年9月、太鼓のグループとともに北部のモザンビーク島で開かれた音楽祭に参加した。音楽祭と言う明るい舞台とは全く逆に、実はその地域はゲリラの活動拠点で、多くの村が壊滅し、地雷もまだたくさん埋められていた。歩くのが恐く、生きた心地がしなかった。

■腹に1万ドルを巻きつけて

万一に備え、片岡がマプトまで来て待機してくれたのは心強かった。片岡は足や腹に1万ドルを縛りつけ、万が一のことが起こったら、飛行機をチャーターし、救援に向かうつもりだったという。国連による武装解除が進まなかった当時は、それほど緊迫した状況であった。

現地に滞在している最中、「長女が生まれた」というFAXが日本から届いた。モザンビークに出発する直前、出産に立ち会うか、今自分がモザンビークの和平のために出来ることをやるか、相当悩んだ末にアフリカ行きを決めた。

伊丹太鼓のメンバーと祝杯をあげた私は、「子供の名前はモザンにしよう」とパートナーにFAXを送ったが、相手にされなかったのはもちろんである。

帰国後、世界の平和に向けた大きな流れの中で、キラリと光る一粒の砂であってほしいと願い、「光砂(みつさ)」と名づけた。

日本にいると感じにくいことだが、実は「銃を鍬に!」は大変危険な運動である。

銃をビジネスにする勢力に狙われる不安が常につきまとう。「命が危ないかもしれない。別居しよう」と、第2子を身ごもったパートナーに真顔で相談し、仰天されたこともあった。


■3万丁の銃

モザンビーク銃を鍬にプロジェクト足掛け5年のこの運動の成果で、3万丁を越える銃が回収できたことを大変誇りに思っている。そしてそれ以上に、銃や武器の恐怖に晒されながらも、それに屈せず正しいと思うことを主張し、実践している人達に出会い、共に運動を担うななかで、彼らの生き様に触れ、学べたことは、私の人生にとって大きな収穫だったと思っている。

辻一憲

第3世界ショップ基金の活動~モザンビーク~ を見る≫

*銃を鍬にプロジェクト:内戦がつづいたモザンビークの大量に出回ってる銃と鍬を交換しようと企画したプロジェクト。銃との交換品として鍬(くわ)は人気がなく、日本の放置自転車(福井を始め沢山の方にご協力頂きました)や中古ミシンを交換品として回収した。

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