第3世界ショップを始めた理由
月刊PressAlternative1997年11月号
スタッフ物語より抜粋
■組織からの離脱
第3世界ショップとしての貿易も含めて、今までやってきた事業というのは、自分たちが、自分たちで、自分たちのことを決めていく領域を増やすということだったと思います。人に依存しない領域を増やす、なるべく他人に決めさせない。それがテーマになっています。だから民主主義なんて、ある意味嘘でしょう。全然知らないところで、現実にはいろんなことが決まっていくのですから。そういうのはみんな嘘だとはっきり言って、自分たちが関わらないものについては、金も出さないし、認めない、ということをいろいろな形にしつつ、11年経ちました。
11年前に事業を経ち上げる前は銀行員をやっていましたが、銀行をやめると同時に一つ気がついたことは、大きい組織のトップになると、あほになるということでした。組織のリーダーって、自分のやりたいことをやらない人にしか、務まらないんですね。
やりたいことがある人にトップはできないんですよ。組織ってのは、大方においてそう。皆のまんなかにたって、こっちもまあまあ、あっちもまあまあっていう性格が大事。それはね、創造的な人には耐えられないことなのです。僕は創造的だったもので、そういうの耐えられなかった。
最後自分は、大きな組織のリーダーをやっていて、人前でしゃべることが多かった。本当は演説好きなんですよ、僕は。拍手なんかされると、気分良くて、恍惚とするんですよ。だけど、それがだんだんあほになってくスタートだということに気付いてやめまして、同時に銀行もやめました。ところが辞めてみると、なんて自分は使い物にならない人間だろうということに気付くんです。
サラリーマンを辞めてから、例えば家庭の主婦がたくさん出ている地域の会合に出ても、「俺は3万人の組織のリーダーだったんだ」なんて思ってしまうものだから、最初に僕がいった言葉は、「この会議には、議長がいない」ってことだった。主婦の会合に議長がいないなんてよくあることじゃないですか。何となく話しているわけですよね。でもその時は、僕の意見が受け入れられて、「議長だって、○○さん、議長」その人議長でも何でもないんだけど、声が大きい人が一応議長になったわけです。
で、僕は図に乗って「この会議には、議題が書いてない」とか言い出す。で、また「議題だってさー」って適当に議題をかく。「決議しない会合なんて、無駄だ」というと「決議だってさー」。女性の会議ってのは、家に帰って、電話しあって、あなたどう思う?って後で決まるんだっていうのを知るまでに、2年くらいかかるんですよね。
その時は会社と同じように、会議の場所で決まるもんだと思ってたから。僕が一生懸命、参加して何かいいことしようと思ってんのに相手にされない。ショックでしたね。それで家にずーっとこもるようになる。昔の銀行の仲間に電話するのは、嫌だった。みじめになってくる気がしましてね。元同僚は、退職したばかりできっと忙しいでしょうって、気を使って電話をしてこない。本当は暇で暇でしょうがないのに、かかってこない。
唯一電話をかけてきてくれるのが、社会保険事務所なんですよね。「年金も、保険も、払い込まれてありませんが」ってね。で、決断しました。銀行やめた瞬間から、お金を一切払わない生活にしたんですよ。車も売る、新聞もやめる、年金、保険、一切やめる。どこまで貧乏に人間耐えられるかっていう実験です。
結果、すっごい自信がつきましたね。何やっても、食っていけるもんだ世の中、という。そうすると、電話かけてきた社会保険事務所、向こうの電話代でしょ、だから「いやー払えないんですよね」とたらたらと話し始める。向こうも、給料稼がなくていい人達ですから、楽しく世間問題まで話し相手をしてくれるわけ。
僕は、自殺してたかもしれない。そのくらい精神的には追い込まれていました。
人と話して、予定表が真っ黒になるのが、僕の仕事だった、そう思ってたわけ。
まったく意味ないんですよ、意味ないんだけど忙しいのが、僕の人生だと思っていた。ところが未来の予定表が、真っ白になってる。それで命の電話(社会保険事務所だったのですが)が僕を救いました。
■かっこ悪い自分を見た
それで、10ヵ月間。その間僕は、寝袋一つで世界中を回りました。もういいやって思ってますから、それまでは死んではいけないって思う旅行だったけれど、死んでもいいやという旅行は寝袋ひとつで、そこら辺ごろッと横になっちゃう。すると虫が入ってくるんですよね。向こうの蟻もでっかくて、足なんて腫れちゃうんですよ。
それからやっぱり怖いんですよね、ポカっと殴り殺されるんじゃないかとか。
そんな様なことやりながら、第3世界ショップの原点に出会うことになります。
タイのコンケンの方にいったときに、ホテルもないし、宿を探していることも説明できない。中国人、タイ人がたくさんいるんだけど、漢字で書いてもわかってくれない。今日も野宿だなと思っていたら、農家の主婦が手招きしてくれてね、うちへとまれって言うんですよ。それが固い板の間。それでも野宿よりいいんですよ。野宿すると音とか、震動とか、熟睡できないんです。固くても、床で寝れるって言うのがうれしくて。
その夜鶏をつぶしてくれてね、ブロイラーじゃないからうまいんですよね。でも次の日からは普通の生活で、おかずなしの水と唐辛子と米の食事だけ。それを食べるんですけど、咽に通らないんですよ。この水飲んだら、下痢するっていうのはわかってるから、飲まない。するとどんどん痩せていくんですよ。日本でそういう経験しようと思ったらね、3食抜くだけでいいですよ。3食食わないと、飯のことばっかりかんがえていくのが人間だっていうのを僕は初めて気づきました。飯のことばっかり考えてた。人間て動物ですね、意地汚ないですよ。食うことだけ。
このままいったら、死んじゃうんじゃないかって、心臓の動悸もだんだん激しくなってくる。こりゃやばいぞっていうときに、僕はうかつにも夜、鞄をこっそりあけて、チョコレートを食べちゃった。向こうは、鶏つぶして、全部僕とシェアして、同じもの食べてるのにですよ。僕はかっこよく生きようと思って、社会性だとかかっこいいこといってた。その人間が銀紙をこっそり剥がしてチョコレートを食べた。
この経験が僕の原点で、何とみっともない男だろう、といやというほど思った。
それからあと、自己嫌悪の毎日のなかで食べるんですよね。人間てなかなか死なない。僕はそれに気付いた。本当に死なないものだって。
■危険と背中合わせの第三世界訪問
それ以降、第3世界を76ヵ国危ないところ歩きづめでした。ある時、東ティモールが元旦に解放になることが決まった。僕は12月25日にインドネシアにいて、本当はインドネシアからそのまま、帰る予定だった。でもそのとき、1月1日になったら入国できる、というわけで、そのままインドネシアに滞在して、東ティモールに入国した日本人で第一号になろう、と思った。
ところが空港で乗客のリストがあって、一々調べる。一時間半調べられた。1月1日に、わざわざ東ティモールにいくやつなんてちょっとそっち系のやつに違いない。ともかく立たされて、一時間半調べられた。聞かれることは「なんできたんだよ、東ティモールに」それに答えて「いやあ、東ティモールいいところです」と。でもそんなのは全く嘘。
入国管理を出た瞬間、明るい公安が僕につくわけ。明るい空の下に、明るい公安がいるの。その公安が、ほんとにずーっと一緒にいてくれるので、身の危険はないんですね。その人が夜になると、夜の11時に必ずドアをノックする。「なんか用事ない?」とか言って、覗く。要するに僕が山の奥に入って、ゲリラと会ってないかとか監視しているわけです。
ベトナムにあるのと同じ機関銃が前についた戦闘ヘリが随所にある。軍事力で制圧したのが、車で走りゃすぐにわかるわけです。興奮するものがあるけど、片方じゃ、怖いわけ。だけど、それはすごい経験だった。
ハイチだと、アリスティード派のアリスティード大統領が、民主主義の下の選挙でうかったにも関わらず追い出された。彼が追い出されたあと、現地に残ってるアリスティード派のNo.1がビンセントっていう牧師でした。彼が僕に連絡してきて、コーヒーを買ってくれと言う。
プランテーション派対協同組合派の戦いで、民主主義派っていうのは、小さい農園がたくさんあって、そういう農園が作っているコーヒーが第3世界ショップの缶コーヒー*なんです。買い付けにいくということは、どういうことかというと、軍事政権が押さえているところへのこのこでかけるということです。
四回くらいハイチには行ったと思います。不思議なのは、ビンセントにあうときには、同行の女医さんと別々になっていて、必ず僕一人になっていたこと。
で、ビンセントは教会の裏から出てきて、やあよく来た、というような具合でした。彼が最後のminister of justice (法務大臣)でした。
*現在の缶コーヒーはコチャパンパ農園
正義の大臣、法務大臣を彼は務めていた。法務大臣の7割が、ハイチでは暗殺されています。ソマリアで失敗したアメリカが、ハイチで選挙監視の兵を派遣するかどうかでもめて、結局アメリカはひいていった。そんなとき彼は、誰も成り手のいない正義大臣を引き受けるんですよね。正義大臣になるっていうことは、殺されるってことなんです。覚悟したとおり、彼はシスター達と一緒に結婚式に出たあと、暗殺されました。それで、アメリカの国論が一気に盛り上がって、ハイチへ派兵して今度の選挙になったんです。
日本は平和ぼけだとよく保守系の人達が言いますが、平和ぼけっていうのは、究極の平和でいいと思う。だけど、そのもろさっていうのは神戸の地震で明らかだったように、何かあったときに対する対応力に乏しい。だからと言って、中央管理型の危機管理ということではないと思いますが。
いろんな国のホテルで、いろんな人を見てきました。一応その国の一流というホテルに泊まるけれども、窓ガラスが割れても直さないところもけっこうありました。そういう所で、エージェント(代理人)っていうのはその時ゲリラが攻めてきたら、朝飯時だろうとなんだろうと、ホテルの部屋に大事なものがあろうとなかろうと、もってるものだけを持って逃げるのが鉄則。
僕もそうですけど、最後は飛行機チャーターするために、キャッシュを持ち歩きます。だから危ないとこへ行く時は、キャッシュを僕は一万ドルは持ってるんですよ、どこかに。最後は一万ドルを出して、空港まではなんかでいかなきゃいけないわけですよ。そん時は金なんですよ。もう。運んでくれって。
そのために、僕は5ヵ所くらいにお金を巻つける。足にも巻く、ここにも巻き、あそこにも巻き、自分で忘れちゃう位あちこち持ってるわけです。
襲われたときも大体、その地域の月収の三倍くらい、これを大体ポケットにいれてるんですよ。その地域の泥棒が、ま、このくらいでいいかなというのが月収3ヶ月なんですよね。多すぎると、もっとあると思われる。少なすぎると怒らせかねない。にっこりは笑わないけどこんなもんかな、って。
頚動脈に短刀とか、ナイフとか突きつけられたりしたら、もう頭の中は真っ白になります。首絞められたときなんか、ホテルに帰ってビールを飲もうとしても、ビールが飲めない。首をうんと絞められたときって、内側がすごいダメージ受けるんですね。飛び上がるくらい苦しい。飲んだら、飛び上がるくらい痛い。黒人の、こんな太い腕で、空気酸欠になっちゃう位、怖いんですよ。だからまた行くんですけど。
平和な日本にずっといると問題がはっきり見えてこない。大騒ぎしていることでも、大した問題でない場合も多い。でも世界の問題はたいへんです。食べる食べられないの世界、戦争で憎しみ合う世界。
やっぱり。なんとかその問題を解決するために一肌脱いでやろうじゃないのって言う、そういう意識が、僕を呼び寄せるのだと思います。
片岡 勝