思い出の国ドミニカ共和国からの招待客
月刊PressAlternative1998年7月号
スタッフ物語より抜粋
■明るい音色をとどけに、再び日本へ
この7月から8月にかけてドミニカ共和国から、10人の若者で結成するバンド「ラ・スーペルバンダ」が来日する。更に、10月には昨年大好評を博したフォルクローレグループ「カントスール」のメンバーが再来日する。
考えてみると、年間に海外から驚くほど多くの人を招いている。
また逆にスタッフが海外へ行くというのも数えた事はないが、PAがスタートしてからもし数えたら大変な人数がいろんな国へ行っている事になる。私が仕事で海外へ出たのを振り返って見ると、始めて仕事として行ったのはちょうど10年前の88年7月から8月にかけてインド・ネパール・タイへの出張だった。
旅行でフィリピン・タイなどの途上国へは行っていたが、本当の意味での途上国と付き合ったのはこの時が初めて。貧しいけれど暖かい生産者の人たちの気持ちを受け入れたい思いと、自分の体調を考え出されたジュースを飲めない心の葛藤を今でも思い出すと胸が痛む。
日本では考えられない富の格差の激しさに、矛盾を感じる事もしばしば。ある意味豊かだけれど本当に貧しい生産者との付き合いの難しさもこの10年感じてきた。途上国への旅は、いろんな事が有り過ぎて、とても紙面には書ききれないが、私の人生での大きな転換期になった事だけは間違い無い。
8カ国ほど行った90年の海外ラッシュを皮切りに、ブラジル・ペルー・アトランタ・マレーシア・タイには数回・バングラデシュ・インドは何回行ったのか?イタリア・メキシコ・ネパール・フィリピン等々。 第3世界ショップ゚、WWB/ジャパンに関わる事で、まさかこんなに海外へ出かけることになるとは思ってもいなかった。
多くの海外出張の中でも最も思いで深いのはドミニカ共和国での20日間の出張だった。
WWBの会議がドミニカ共和国で開かれるという連絡を受けた時には一体中南米のどこに位置するのか分からず、思わず地図を出して探してしまった。ドミニカ共和国で開かれた会議はWWBの会議の中でも最もハードなスケジュールで、朝の8時から夜9時まで毎日続き、ホテルの部屋に戻っても次の日の準備をしないと参加をしても言葉も内容も着いていけない為、夜中までかかって準備をした。
朝から晩までホテルに缶詰、1週間も過ぎるとホテルの食事にもあき、何かリフレッシュしないといられない状況だった。
唯一の楽しみは、夜中に送られて来る日本からのFAX、PAのスタッフや家族からの、見慣れた日本語の文章が、こんなに気持ちを落ち着かせてくれると感じるのは初めての経験。ホテルには美しいプライベートビーチが付いているが、泳ぐ時間が全くない。夜中にふと窓の外を見るとなんとも美しい星空、思わず泳いでみようかなと部屋を出た。さすがにいるのは警備の黒人だけ。だれもいない夜中の海で泳ぐのは初めての経験だったが病み付きに。夜中に泳ぐ私に何かあってはと、警備の人がずっと見守ってくれる。時にはこの守ってくれている人が真っ暗な中で、後ろから声をかけて来る。分かっていても思わずドキ・・・。私が驚くのを見て相手も驚く、思わずこんばんわと声をかけ、そそくさと部屋に戻る。これが毎日の習慣になり、3週間の会議を無事終わらせる事が出来たのは、この夜中の水泳のお陰。
会議が終わった日に、会議の間私を何故かずっとサポートしてくれたアフリカのボツワナから参加をしていたベアトリックに誘われて、美容院に行った。折角ドミニカ共和国に来たのだから美容院に行こうという彼女の言葉に促され行ってみることに。彼女が向かっている先はホテルのお隣にある浜辺、どこにあるのと聞くと。「そこ」と答える。何もない浜辺の石の上に座って1時間、何と器用な手先、私のロングヘアーの先は全て細い細い三つ編みに、そしてその三つ編みの先にはカラフルなビーズ、日本では絶対に出来ない髪型に変身。ドミニカ共和国に来たらこれだよ・・・と自慢そうな彼女、思わず踊ってみたくなるが、リズム感の違いは致命傷。
2人でホテルに戻ると、一緒に会議に出ていたメンバーから何処で・何処でと質問攻め。今年、そのドミニカ共和国から「ラ・スーペルバンダ」がやって来る。ホテルで食事をしている時も、町を歩いていても踊っている人がいる。ドミニカ共和国のルーツは決して明るい物ではない。彼らの国を調べていけば黒人の叫びが聞こえて来る。ドミニカ共和国に渡った日本人も決して楽な移住ではなかった。しかし、今の町は決して暗い影は見えない。
サンバが、メレンゲが聞こえない時はないと言ってもいいくらいの明るい国、ドミニカ共和国から来日する彼らの音楽がどんな郷愁を、どんな共感を残してくれるのか、今年は特にドキドキしながら来日を待っている。
あだち ゆきこ