市民の知恵と工夫、信念で銃のない社会づくりを世界に広げる。
今回は私なりに見てきた戦争論です。
戦争のない平和な50年間しか生きてない私にとって、戦争はどうにも理解しにくいものです。どう考えても馬鹿らしい戦争をなぜ人類はやるのか?
一度始めると憎しみが積み重ねられ止められなくなる。
だから、国連は予防外交に力を入れ始めたわけです。そういう知恵や「銃を鍬へ」などの解決への努力、一方、人類のDNAに組み込まれているとも思える戦争の原因、動機。この絶え間ない2つの要素が競い合う地球という舞台。そこで見たこと、ヘーと思ったことを今回はレポートします。
■戦争は人の自発性を奪い去る
モザンビークの内戦は合計で28年間続きました。間2年間休戦してますので、30年間ずっと戦争状態にあったという国です。ですから15才ぐらいから戦争に兵士としてかり出されて、45歳まで戦争だけやっていた人生、という人がいます。こういう境遇の人はそうそう世界にいるものではないはずです。
こういう人達が何を一番恐れるかというと、サラリーマンがサラリーマンをやめることを恐れるように、兵隊が兵隊をやめるのを恐れます。何故なら兵士という職業は、全て命令に従えばいい、ある意味でとても楽な仕事だからです。右向け、左向け、銃打て、という命令に従い続けて15歳から45歳の30年を過ごしてしまった人達は、もう自分から動くということはありません。
命令されること以外、することが無くなってしまったのです。
新しい国づくりをする時に一番問題になるのは、こういう「兵士を止めたくない兵士」で、これが戦争を終らせなかった一つの原因だと言えるくらい、戦争の影響は人々に残ります。勿論、戦争が長引いた理由として他にも政治的な要素がありますが、兵隊というのは、それで飯が食えるという職業でもあります。つまり戦争が終われば兵隊の殆どは職を失うことになります。30年も続けた職業をあっさり捨てるのは難しいわけです。
内戦前のモザンビークには、牛が相当いました。ミルクと牛肉を輸出するぐらいに、生産量ではアフリカ6位という豊かさでした。そのたいへん豊かな国から、内戦によって牛の姿が消えました。どこかの家を襲って、そこの牛の上に奪った家財道具を載せて帰ってくる。
帰ってくると、牛をみんなで焼いて食べる、それを繰り返しているうちに牛の姿が消えていきました。
そんなことが起きる社会では、銃をもっていれば、略奪して生きていけることを皆がわかっているから、みんなが戦争に次々と荷担していきます。
みんなが銃を持つほか選択肢がなくなるというのが、国中で行われていたという恐ろしい状況だったのです。
今回の銃回収プロジェクトの事務局で、アントニオ・ネベッシュというスタッフがいます。
彼の兄の子供が、町中で車に乗っているところをゲリラに連れ去られたことがあり、情報が入ったのでアントニオが行ってお金で解決して帰ってきたことがありました。
連れていかれたのが女の子だったのでその間に兵隊にレイプされています。日常が既にそんな状態になっているとき、兵隊が悪い、誰が悪いという話のレベルでは既に無く、戦争が終われば失業し、失業すれば新しい仕事を見つけられるわけでもない、だから兵隊は武器を持って戦争を続ける。それが日常の生活のサイクルになっていたのです。
銃を回収し、武器をみんなが持たなくなるようにと働きかけても、現場が武器を離さない。日本の侍が腰に刀をつけていないと不安で仕方なかったのと同じで、銃を持っていないと不安で不安でしょうがない、というのが当然。それが、現地で得た感覚でした。兵隊のために新たな仕事を作る事が戦争を止めさせる条件なのです。
■複雑な構図
内戦を長引かせた「支援」他の国から、武器も食料もお金も、みんな入ってきていたということも大きな理由でした。アメリカとソビエトの冷戦構造の中で、様々な国が巻き込まれていったということです。モザンビークについて言うならば、現在ドラカマという野党第一党のリーダーは、かつてゲリラの親分でした。
ゲリラだから悪い、政府だから正義、という構造は必ずしもここでは当てはまらず、実際に腐っている政府はたくさんあります。
このドラカマは、かつて傭兵(雇われ兵)でした。アメリカ軍と南アフリカに雇われていたと言われていますが、彼が殺戮を犯し、それでも今では何故野党の第一党のリーダーになったか、それは西側から補助、補給が続いたからなのです。国内で戦い続けたら、食料も生活物資も、そして武器も人も尽きていく筈なのが、外国から次々と補給され、そして戦争が続けられたのです。トラックの荷台に乗り込んだモザンビークの兵隊たち
明らかに、共産主義対資本主義の戦いという構造が、モザンビークだけでなくアフリカの内戦全てに見てとれます。マシャルと話すと彼女も「社会主義でなくても良かった。でもアメリカに対抗するとしたら、社会主義しか無かったから」と言うのです。アメリカが武器や戦争のための物資を投入する、それに抵抗する理屈は社会主義しか無かった、そして応援してくれたのもソビエトだった、ただそれだけの理由だ、というのが、振り返ってみての正直な理由なのでしょう。
海外からの主義、主張、イデオロギーも含め外圧が極めて内戦に大きい影響を与えていたということです。
単に「銃を鍬にしよう」と言っても、現実には様々な「戦争の原因」があり、そういう「戦争の原因」を抜きにして、銃を回収し平和を取り戻すという問題解決は不可能だろうと考えます。
米ソの冷戦が終わって、一つの戦争の原因は取り除かれ、モザンビークに平和が訪れました。
■民族と宗教
様々な戦争の原因として、他の国の事例を見てみましょう。一つは宗教と権力が絡み合った形で内戦が起きている旧ユーゴスラビアがあります。
その中の今はクロアチアになっているあたりは昔、イスラム勢力が政権をとっていたことがありました。そのときにイスラム教徒がたくさん生まれました。彼等は民族に関係なく戦争の勝者に従ってあっさり改宗することになるんです。それで、目の青いイスラム教徒が生まれます。
何故ならイスラム教になると社会のピラミッド構造で上の地位をとることができるからで、例えば役所では権力あるポジションとか、軍隊でも上層部に行ける等です。
しかし世の中面白いもので、今度はイスラムが崩れ、クロアチア人が政権をとるとイスラムは虐げられる立場になってしまいます。すると、今度は皆クロアチア人になろうとするのですが、ずっと続いてきた歴史あるクロアチア人と、「にわか」クロアチア人との間で、それはちょっとお前ずうずうしいんじゃない、ということに当然なりますから、クロアチア人のなかにも上下関係ができます。
というような歴史の繰り返しを重ねて、今のクロアチアではどうなのかと言えば、僕は千年前からクロアチア人だったということを小学生が言うんです。そういうことを自分のアイデンティティーにしていくことで、ますます差別化されていくわけです。あいつは300年クロアチア人。俺は1000年クロアチア人、という風に。この「何年クロアチア人」ということにのってツジマンという指導者はで差別化政策をはかり、危機感を煽るわけです。
こんな歴史を持っているわけですから、なかなか新ユーゴとクロアチアが仲良くなることはありません。例えばルワンダではツチ族とフツ族の差別を政治的に使います。
しかしツチ族とフツ族を見て違いをいえる人は、もういないそうです。
ツチ族は背が高くてフツ族は背が低いんだ、ツチ族は遊牧民でフツ族は農民だ、そんな風に言いますが、実際は混血して区別がなくなっている。
ツチ族とフツ族の融和を進める市民運動が話し合いの努力を続けていますが、今まで殺しあいをしていた間柄ですから、一世代二世代じゃ終わらない。長い歴史の中での差別を話し合いで解決するには同じくらい長い時間がいる。簡単ではないのです。
■粘り勝ち
政治学の先生に「ボスニアヘルチツェゴビナの問題、ソマリアの問題はどう解決すれば良いのでしょうか」と聞いたことがあります。先生の答えは、結局やるところまでやって、疲れきってぎりぎり再生産がきかない限界にくるまで争うのが人間かもしれないね。そこまでいかないと、結局仲介をしても戦争というのは終わらないのかもしれない」そんな言い方をされていました。人間とは馬鹿な動物で、言われてみると確かに、本当にそこまで行ってしまうのでは、という感覚もそれぞれの現地に行くとします。戦争は疲れるまでやるしかないのでしょうか。そう考えると「銃を鍬に」の運動も空しくなりますが、疲れたら負けですので、こちらも粘り強くやるしかない、と言い聞かせています。
辻一憲
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